クラリネットとピアノによる三重奏ライヴ開催

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来る6月22日、旧平櫛田中邸のアトリエにてトリオライヴがあります。
アジサイの咲く頃、アトリエ空間を生演奏とともに、田中邸の味わいをお楽しみください。
曲目は、クラシックとPOP’Sの盛り合わせ。「その日しか味わえない音楽」をモットーにし
たアレンジと料理人(?)を思わせる心意気に乞うご期待下さい!

クラリネット&ピアノ三重奏LIVE
《The 4th Music Live in 旧平櫛田中邸》

[日時]2014年6月22日(日)14時開演(1時間程度)
[出演]酒井麻由佳、島田幸輝、塚本啓理
[場所]アトリエ
[定員]45名(要予約)
[料金]2000円(別途300円、保全活用協力金にご協力ください)

0622味わう日_チラシ

毎月一度開催している「田中邸を味わう日」と合わせて開催します。

毎回、朝11時よりオープン。お昼迄はぞうきん、ほうきやはたき等、日本家屋の材質に合わせた道具を使って掃除や風通しなどの作業をしながら過ごしてみても味わい深いです。ゆったりとした時間をお過ごしください。

 

 

 

 

 

 

六十、七十凍たれ小僧、男盛りは百から、百から

kusunoki世界最長寿の芸術家・平櫛田中は、ただ長生きしたというだけでなく、エネルギーに溢れる人物だったようです。ある時、平櫛田中は70歳の陶芸家と展覧会場に向かっていました。会場は思っていたよりも遠く、歩き疲れた陶芸家が「タクシーを使おう」とが言ったところ、「若造のくせにだらしない!」とカンカンに怒り説教した、と伝えられています。この時田中は90歳を過ぎていました。田中は健康のためめったに車を使わず、歩いて移動していたのです。このような心がけがあったからこそ、田中は長い間作品を作り続けることができたのかもしれません。

また、100歳の時には、30年分の材料として直径2メートルのクスノキ材を3本も購入しました。130歳まで仕事を続ける気だったのです。「いまやらねばいつできる。いまやらねばいつできる、わしがやらねば、だれがやる。」が口癖で、「六十、七十凍たれ小僧、男盛りは百から、百から」を見事実践してみせました。

(写真:100歳の時に購入したクスノキ材の一部)

 

ギネス世界最長寿の芸術家

DB002-0201E_001_rl1平櫛田中は、明治5年(1872)に生まれ、昭和54年(1979)にその生涯を閉じました。107歳まで生きたということですが、当時の平均寿命は34歳だったことを考えるとかなりの長寿と言えるでしょう。長生きした世界の芸術家と言えば、芸術家ピカソ(92歳)、日本画家・小倉遊亀(105歳)、彫刻家・北村西望(102歳)などがいますが、その中でも107まで生きた田中はギネス世界最長寿の芸術家です。

(写真:田中美術館より平櫛田中の肖像)

貧乏極楽、長生きするよ

hirakushiPhoto田中は「貧乏は骨の髄までした。」と自伝で書いています。三十四歳で妻・花代をめとったので、晩婚と言えるでしょう。そのころ平櫛は、二軒長屋のひとむねを借りて住んでいたのですが、「作家、彫刻家の女房などというものは貧乏なもので、世帯のやり繰りには、人一倍苦労した。」「生活は貧乏そのもので、月四円五十銭の家賃が、どうしても払えない。コツコツ仕事に打ち込んではいたが、作品ができ上がっても、すぐに売れるわけではない。家主は、何度も家賃の催促に来たが、貧乏で払えませんと、十か月も家賃をためたことがあった。」と書いています。

もともと食えない木彫刻の世界で、田中は一心不乱に作品作りに取り組みました。しかし、やっとできた作品もなかなか売れず、還暦を過ぎても貧乏の連続でした。あるとき、思い余って天心に「先生、彫刻は売れません。どうすれば売れますか」と相談したところ、「みんな売れるようなものを作ろうとする。だから、売れないのです。売れないものを作りなさい。そうすれば、必ず売れます」という天心の言葉にハッと悟りが開けたそうです。そして創った『活人箭』は傑作と評価され、高く売れました。まさに「貧乏極楽、長生きするよ」の人生です。

昭和37年(1962年)、文化勲章を授章したときは九十歳でした。親授式の日、昭和天皇から「いちばん苦心したことは」と開かれ、田中は「それは、おまんまを食べることでした」と答えました。貧乏こそが創作の源泉だったのです。

 

いつも柳の下にどじょうはいません

eueno_chosen1s岡山に生まれ大阪で木彫の手ほどきを受けた平櫛田中は、明治31年(1898年)に上京してから、長安寺で下宿をしていました。旧平櫛田中邸はそこから10分の所にあります。上京してまもなく、田中自作の観音像が70円で売れました。現在の物価だと30万円近くになるので、臨時収入としてかなりの大金だったことでしょう。それから、別の作品がある展覧会で買い上げとなり、上京してから立て続けに作品が売れた田中は「東京って、なんて素晴らしいところなのだろう!」と感激しました。しかし、その後はまったく作品が売れず、しばらくの間酷い貧乏暮らしを体験することとなります。のちに田中は当時を振り返りこう書いています。「いつも柳の下にどじょうはいません」

(写真:台東区の長泉寺)

平櫛田中と谷中・上野桜木

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寺町・谷中界隈は、江戸の頃より絵師や工芸職人らの住む町でしたが、明治期に東京藝術大学の前身、東京美術学校が上野の杜に開校し、画家や彫刻家が多く住み始め、近代美術文化を育む町になりました。  岡山県井原市で生まれた平櫛田中(ひらくしでんちゅう1872〜1979)は、彫刻を学ぶため明治30年に上京し、高村光雲、岡倉天心、横山大観らの縁で谷中・上野桜木に合わせて70年以上暮らしました。彫刻一筋のため生活に苦労しましたが、地域の人々の支えに感謝し、谷中茶屋町に「狛犬」一対、東桜木町会に「獅子頭」、谷中小学校に奨学金と「いまやらねばいつできる」の書を贈りました。地域の鎮守「諏方神社」の扁額の書も手がけました。岡倉天心を生涯の師と仰ぎ、東京藝術大学内の天心坐像を手がけ、日本美術院発祥の地、岡倉天心記念公園の六角堂建立の際には、天心の胸像を寄贈しました。 田中は日本の伝統彫刻と近代美術の写実性を融合し、禅や歌舞伎にも学び、「転生」、「鏡獅子」などの代表作を生みました。後進芸術家の育成にも尽力し、近代彫刻のコレクションを東京芸大に寄贈しました。昭和36年には台東区名誉区民になり、昭和39年には文化勲章を受章。その人柄と芸術への姿勢は、今も地域内外の人々に親しみと誇りを込めて語り継がれています。