貧乏極楽、長生きするよ

hirakushiPhoto田中は「貧乏は骨の髄までした。」と自伝で書いています。三十四歳で妻・花代をめとったので、晩婚と言えるでしょう。そのころ平櫛は、二軒長屋のひとむねを借りて住んでいたのですが、「作家、彫刻家の女房などというものは貧乏なもので、世帯のやり繰りには、人一倍苦労した。」「生活は貧乏そのもので、月四円五十銭の家賃が、どうしても払えない。コツコツ仕事に打ち込んではいたが、作品ができ上がっても、すぐに売れるわけではない。家主は、何度も家賃の催促に来たが、貧乏で払えませんと、十か月も家賃をためたことがあった。」と書いています。

もともと食えない木彫刻の世界で、田中は一心不乱に作品作りに取り組みました。しかし、やっとできた作品もなかなか売れず、還暦を過ぎても貧乏の連続でした。あるとき、思い余って天心に「先生、彫刻は売れません。どうすれば売れますか」と相談したところ、「みんな売れるようなものを作ろうとする。だから、売れないのです。売れないものを作りなさい。そうすれば、必ず売れます」という天心の言葉にハッと悟りが開けたそうです。そして創った『活人箭』は傑作と評価され、高く売れました。まさに「貧乏極楽、長生きするよ」の人生です。

昭和37年(1962年)、文化勲章を授章したときは九十歳でした。親授式の日、昭和天皇から「いちばん苦心したことは」と開かれ、田中は「それは、おまんまを食べることでした」と答えました。貧乏こそが創作の源泉だったのです。