六十、七十凍たれ小僧、男盛りは百から、百から

kusunoki世界最長寿の芸術家・平櫛田中は、ただ長生きしたというだけでなく、エネルギーに溢れる人物だったようです。ある時、平櫛田中は70歳の陶芸家と展覧会場に向かっていました。会場は思っていたよりも遠く、歩き疲れた陶芸家が「タクシーを使おう」とが言ったところ、「若造のくせにだらしない!」とカンカンに怒り説教した、と伝えられています。この時田中は90歳を過ぎていました。田中は健康のためめったに車を使わず、歩いて移動していたのです。このような心がけがあったからこそ、田中は長い間作品を作り続けることができたのかもしれません。

また、100歳の時には、30年分の材料として直径2メートルのクスノキ材を3本も購入しました。130歳まで仕事を続ける気だったのです。「いまやらねばいつできる。いまやらねばいつできる、わしがやらねば、だれがやる。」が口癖で、「六十、七十凍たれ小僧、男盛りは百から、百から」を見事実践してみせました。

(写真:100歳の時に購入したクスノキ材の一部)

 

ギネス世界最長寿の芸術家

DB002-0201E_001_rl1平櫛田中は、明治5年(1872)に生まれ、昭和54年(1979)にその生涯を閉じました。107歳まで生きたということですが、当時の平均寿命は34歳だったことを考えるとかなりの長寿と言えるでしょう。長生きした世界の芸術家と言えば、芸術家ピカソ(92歳)、日本画家・小倉遊亀(105歳)、彫刻家・北村西望(102歳)などがいますが、その中でも107まで生きた田中はギネス世界最長寿の芸術家です。

(写真:田中美術館より平櫛田中の肖像)

いつも柳の下にどじょうはいません

eueno_chosen1s岡山に生まれ大阪で木彫の手ほどきを受けた平櫛田中は、明治31年(1898年)に上京してから、長安寺で下宿をしていました。旧平櫛田中邸はそこから10分の所にあります。上京してまもなく、田中自作の観音像が70円で売れました。現在の物価だと30万円近くになるので、臨時収入としてかなりの大金だったことでしょう。それから、別の作品がある展覧会で買い上げとなり、上京してから立て続けに作品が売れた田中は「東京って、なんて素晴らしいところなのだろう!」と感激しました。しかし、その後はまったく作品が売れず、しばらくの間酷い貧乏暮らしを体験することとなります。のちに田中は当時を振り返りこう書いています。「いつも柳の下にどじょうはいません」

(写真:台東区の長泉寺)

平櫛田中と谷中・上野桜木

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寺町・谷中界隈は、江戸の頃より絵師や工芸職人らの住む町でしたが、明治期に東京藝術大学の前身、東京美術学校が上野の杜に開校し、画家や彫刻家が多く住み始め、近代美術文化を育む町になりました。  岡山県井原市で生まれた平櫛田中(ひらくしでんちゅう1872〜1979)は、彫刻を学ぶため明治30年に上京し、高村光雲、岡倉天心、横山大観らの縁で谷中・上野桜木に合わせて70年以上暮らしました。彫刻一筋のため生活に苦労しましたが、地域の人々の支えに感謝し、谷中茶屋町に「狛犬」一対、東桜木町会に「獅子頭」、谷中小学校に奨学金と「いまやらねばいつできる」の書を贈りました。地域の鎮守「諏方神社」の扁額の書も手がけました。岡倉天心を生涯の師と仰ぎ、東京藝術大学内の天心坐像を手がけ、日本美術院発祥の地、岡倉天心記念公園の六角堂建立の際には、天心の胸像を寄贈しました。 田中は日本の伝統彫刻と近代美術の写実性を融合し、禅や歌舞伎にも学び、「転生」、「鏡獅子」などの代表作を生みました。後進芸術家の育成にも尽力し、近代彫刻のコレクションを東京芸大に寄贈しました。昭和36年には台東区名誉区民になり、昭和39年には文化勲章を受章。その人柄と芸術への姿勢は、今も地域内外の人々に親しみと誇りを込めて語り継がれています。

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2012年9月30日 讀賣新聞