ぐるヤミの胎動

「ぐるヤミ」の誕生と背景

谷中で1997年から続くアートイベント〈art-Link 上野-谷中〉が、2007年に台東区の「芸術家支援制度」のモデル事業に選ばれ、支援を受けることになった。これをきっかけに台東区アートアドバイザーをしていた熊倉純子(東京藝術大学教授)と熊倉純子研究室の学生が谷中での活動を始めることになる。2008年には、熊倉純子と熊倉純子研究室の学生、アートマネジメントに関心のある社会人ボランティアスタッフが集い、「谷中のおかって」として活動を初める。「谷中のおかって」は、〈art-Link上野-谷中〉の軒先を借りて、まちを案内する〈谷中散歩〉や〈インフォメーションセンター&アートよろず相談「谷中のおかって 」〉を企画・実施する。そして2009年に東京文化発信プロジェクトにおける「学生とアーティストによるアート交流プログラム」の一環として「ぐるぐるヤ→ミ→プロジェクト」が行われ、「谷中妄想ツァー!!」が誕生する。

 

初期:「谷中妄想ツァー!!」ができるまで

熊倉純子率いる「谷中のおかって」がまちの公民館や地域の店の軒先を借りて活動をし始めた頃、谷中に隣接する千駄木地域に在る大西健太郎の家に芸大生を中心とした若手表現者たちが集い始めた。当時熊倉純子研究室の学生だった富塚絵美が大西の部屋を公の場所に作りかえ「“集まって解散する”を繰り返す」活動をし始めたためである。
富塚は「谷中のおかって」と「大西家」を行き来していた。「谷中のおかって」には「アート」という言葉に引き寄せられたボランティアスタッフや「アートマネジメント」の可能性に関心を寄せる学生が集い、「大西家」には表現したいのかどうかの確信も得られないまま「アート」の周辺で活動する人々が集っていた。富塚は両者に集う人々を“芸術っ子”と呼び、彼らとのコミュニケーションの中から“芸術っ子”ひとりひとりの希望を全部叶える企画を想定し、強引にも実現しようとして生まれたのが「谷中妄想ツァー!!」だった。それは芸術っ子たちの理想の最小公約数を具現化したものであり、同時に社会での「アート」のあり方、世界と自己との理想的な関係を問う作品となった。