
私にとって芸術派かレーのようだ。いくら食べても飽きず喜んでまた食べれるからだ。
カレーは比較的長年前からずっと人類の歴史と一緒にやってきた。それは、芸術が紀元前から人類の歴史とともに存在してきたのと同じであるだろう。カレーの期限は、インドのカリーであり、これは東インド会社を通じて英国に伝わり、イギリスの文物を導入した日本によってもう一度伝わった後、その後には全世界的にカレーという料理が流行になったのである。本来、芸術派国家的な起源を論するのは不可能であるが、反面、現在世界的に享受できるようになったカレーと芸術は、万国の享受可能性という共通点を持っていると見えるだろう。
本来、インドには、色々の材料を用いて作った香辛料を「マッサラー」と呼ぶ。そしてカレーはこのたくさんのマッサラーの中で含まれている種類であり、カレーはそのマッサラーの中で最小の粗雑な材料として作られた安物のマッサラーを意味すると言われている。しかし、これは逆に考えてみると、最小の材料て程度以上の満足的な風味を作って人を楽しませるとも解釈できるが、これは芸術として考えてみると、一種の「ミニマリズム」として見れるだろう。単純な材料として最大の満足を引き出すこと。ミニマリズムの芸術派カレーとも互いに会う面があると思われる。個人的にはミニマリズムのスタイルを芸術の中で一番美しいス
タイルであると考えている私にとって、この点は愛らしい。
同じで見えても全部同じカレーではない。普通、カレーはインドのカレーから基づいたものであるが、インド内でも地方によって多様な形態のカレーが現れる。北のパンジャーブ地方では地方固有のマッサラーがあり、西のグザラット地方は勿論、南のタミールでもその地方なりの固有な形態のマッサラーを持っている。これは芸術として言うと、民族音楽としてのカレーである。同じ地方の音楽としても、地方について固有の芸術が現れる。例えば、韓国では同じ地方のアリランとしても、カンウォン、ウルサン、ジンド・・・地方によって固有の形態の芸術が現れるが、これはつまり、インド内でも地方によって固有のマッサラーが発展したことと同じ姿として見れるだろう。勿論、インドの中でも地方によって多くの民族音楽が発達しているはず。芸術では、少なくても音楽ではホセ・マセダやバルトーク・べーラーのように地方の民族音楽をの収集で情熱を注いだ芸術がいる。では、各地方のカレーを集めた料理屋さんは、そのようなマセダ・コレクションのようなものと見てもいいではないのか。
世界のカレーは全部同じ姿を持っているわけではない。巨視的に視線を広めれば、国によってたくさんの種類のカレーが現れることが分かる。インド外には、タイのカレーである「ケン」は、インドでは味わえない固有の香りが経験できる。日本はカレーとお米を積極的に活用した「カレーライス」を作り、新たな「ジャンル」を作ったのである。韓国では、日本の影響を受け、まだカレーよりは、例の「カレーライス」がもっと普通として食べられるが、そのカレーの風味や色彩は日本のカレーよりはもっと差別化された形態を持っている。その以外にも、中国、ベトナム、バーマー、インドネシアなどのアジアの料理を見てみると、カレーの形態を持っている国々なりの料理が見つけられる。これは芸術の世界性と共通てきな面として、国によって固有の色彩をもった芸術世界を見つけられることと同じである。ギリシャの芸術、中国の芸術、日本の芸術、韓国の芸術、アメリカの芸術、インドの芸術・・・
カレー・ライスの場合、同じ彼であってもどんなお米を使うかによって人々の選好が違うようになることが分かる。インドを含めて西南アジアの場合、水分や粘度がまったくないインディカ種のお米を使う。普通の西洋ではこのようなインディカの種を最高のお米として考える反面、韓国の場合、インディカを粗悪な質のお米としてみている。これは韓国のみならず、日本や中国などの東アジアでも同じだと思う。なぜなら、このような国ではインディカ種よりは水分や粘度が適切に含まれているジャポニカ種のお米を食べてきたためである。インディカよりはジャポニカのお米にもっとなじんでいるのは当然であるかもしれない。需要の面で見ると、東アジアでカレーをもてなす時、インディカよりはジャポニカで作ったカレーライスを供給するのがもっと需要があるはず。芸術も同じである。同じ芸術であるが、その需要の階層がそれぞれであるのだ。例えば、極端てきなスタイルと呼ばれるフィニッシーやファーイフーなどのニューコンプレクシティー(新複合主義)の音楽をどんなに広い階層の人々が好むだろうか。音列主義や過激なアヴァン・ギャルドの作品はどうなるだろうか。今の大衆って、まだこのような芸術を十分に受け止める準備がきちんとなっていないと思う。少なくとも、いまの大衆によってアヴァン・ギャルド作品は東アジア人にもてなされるインディカのお米なのだ。しかし、東アジア人にジャポニカのご飯を食べろって強いる必要はない。芸術も同じである。難しい音楽を必ず聴けと強いる必要は無いのだ。アヴァン・ギャルドの芸術派密やかに大衆のなかで巻き込みながら存在してきた。シュトクハウゼンの電子音楽の研究がクラフトベルクを作り、ビートルズに影響を与えた。今のポストモーダン時代では、純粋芸術と大衆芸術の境界が曖昧になっている。お米も同じであるかも知らない。大衆に純粋芸術と大衆芸術を選ばせると、大衆の殆どは当然ながら大衆芸術を選ぶ。でも純粋芸術を好む少数派もいると同じのように、東アジアでもインディカを好む少数派が存在するのだ。アヴァンギャルド音楽と言うことが人々になじみ始まるためには、優しいことから始まる段階的な努力が必要かもしれない。これは優しいことから始まるカレーの辛さの調節の性格とも似たようなこととして見れるではないだろうか。
カレーは美味しい!カレーだけたべても、ご飯と一緒に食べても、麺と一緒に食べても、パン(ナン)と一緒に食べても、カレーはとっても美味しいのだ。芸術は美しい!美術品をみながら、音楽を聴きながら感動をうける。ダンスや武芸をみでその身体の動きに感心したり、文学をみて涙を流したりする。どんな種類であっても、芸術は美しいものなのだ。
カレーは高い。普通のカレー・ライスなら600円から1千円ぐらいの値段に楽しめるが(インスタントは論外にしよう。)、きちんとしたインド式カレーは、それ以上の値段として売られる場合が多い。芸術も同じであると思うのが、今の芸術市場の値段層はある程度合理的であると思うが、今の芸術市場で、たまには庶民が享受するには、負担が大きい値段のコンサートや展示会もあるだろう。しかし時間が経つと、どんどんインドのカレーでも、現代芸術の展覧会であっても、だれでも享受できるようその規格が低くなるだろうと思う。
カレーは抗癌効果がある食べ物として、人の体を元気にさせる健康食品として知られている。芸術も同じではないか。私は、芸術が人の体と心を元気にさせ、そしてそれが人の魂をきれいにさせると信じている。例えば、カレーが体を元気にさせたら、芸術は心を元気にさせるのだ。
インドはヒンドゥ教の影響で牛の肉を食べない。しかし現代のインド人の中では、牛肉を食べる人なんて、ないはずがない。これは、たぶん彼らがヒンドゥ教徒ではないためであると思うが、ヒンドゥ教を信じても、その教理に関わらず喜んで食べるヒンドゥ教徒もいるのではないか、そう考えてみると、既存の教理にも関わらず牛肉を食べるヒンドゥ教徒は、既存の教理を拒否するままに研究し、発達してきたアヴァン・ギャルド音楽の性格と同じように見れるのではないか。
私かカレーにあったのは、すばらしい偶然であると言いたい。偶然に接したカレーの料理に魅了され、その後のカレーとの恋は今まで繋がっている。芸術も同じである。偶然に聴いたモーチャルトの音楽が私を魅了され、芸術との恋も今までずっと繋がっているのだ。カレーと同じのように、芸術と私との遭遇は本当に素晴らしい偶然であるかもしれない。世界ではどのような素晴らしい偶然が私を待っているか、私は分からないのだ・・・