報告書・FU・RÏ・KÂ・Ë

そろそろ冬に成ろうとしています。おかってに所属され、活動ほ開始はじめたから半年以上経ちましたね。本当、「time flies, clock ticking」です。

(自分勝手に)おかっての重要なイベントのなかで一つであるぐるぐるみっくすは余り参加せず、でも子供の前には何も出来ず無能になってしまって仕方がないという言い訳と一緒に、この点はお詫びいたします。

ぐるぐるミックスでは参加全然しなかったのですが、他にも色々あったでしょう。田中邸を味わう日やスカンクと他の色々の展示、じんじんさんとの楽しい野点・・・おかげさまで自分のアートを見つめる視線に関しても少しだけは影響を受けたかも知れません。

さて本論ですが、今日はちょちょちょちょちょちょ好きなちょりさんのお願いにより、今まで経験したアートイベントのなかで幾つかを振り返りながら文を書いてみようと思います。

正直におかってに入ってから初めの印象は「この人たちなにをしたがっているのか」でした。そして今もその気持ちは構いません(…)しかし「何をしたがっているのか分かっていない」状態であったこそ、色々予測不可な企画たちができるでしょう。

その中で印象に残ったのを選んだら、やはりじんじんさんとの野点と躊躇わず言えます。じんじんさんとは、おかってのイベントで始めて出会った訳では無いのですが、でもおかってと一緒に活動したものの中で、忘れの出来ない印象を与えてくれたのです。

じんじんさんの「(きむらとしろうじんじんの)野点」はもちろん外側でみたら、ただ「自分がお茶碗で色づけてそれて飲みながら遊ぶ」だけなのです。しかしその中で私はどのようにアートを見ながら活動していかなければいけないか、色々考えを齎したのです。それは何でしょうか、何よりも大事なのは、「皆と一緒にアートをする情景」でしょう。自分はクラシックで活動する者で、私の活動領域でこの「場」を作るのはとっても難しい課題であるかもしれません。危くと、クラシック・コンサートがジャニーズのコンサートのようにその性格が覆されちゃう危険もあるのです(勿論場合によってそのようになるのも悪くはないと思いますが・・・)。言い直すと、それは「偏らないこと」です。アーティストとして最小限のプライドを守ることと、境界を破って観客と演奏者である私と一緒に「場」を作ることの間のバランスを取ること。じんじんさんはそのバランスを取るのにとっても熟達されていると私は見えたのです。私の目に見えたじんじんさんの姿は、自分の仕事に夢中になってる姿、お客と一緒に話している、アーティストと客とスタッフの区分を全然考えていない天然性(?)、そのうえ自分の才能を誇らない謙遜に重ねて、全ての姿が分離されていなく、むしろ同時に見られたのです。

ここまで言うと完全に蛇足ですが、じんじんさんは(今としては)性的少数ではないですが、じんじんさんの作業する姿自体は、私に数え切れない量の勇気を与えてくれました。私はアートをする同時に、自分の中に悩んでいたジェンダーやエキスタンシー(自我の存在性)の問題に大きい関心を持っていました。それに関して、じんじんさんは私にどのような姿で社会で直面し、アートをやるべきか、回答まではいえなくてもせめて一種のヒントは出来たかもしれません。

たぶんあっという間にじんじんさんに憧れたかも知れません。「じんじんさんを見習う」とか「じんじんさんになりたい」訳ではないですが、自分も自分なりのアートをするとき、私も私なりの「チャーミング」な形のアートをして行こう。という思いを持っているのです。

カカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカ

8月15月は韓国での終戦記念日でした。関係ないですけど。

何しろ8月15日(本番)以前まではカカカフェというイベントに行ったことがありませんので、いったい何するところだろうか、全然分かりませんでした。

一応カカカフェの調べがてらの調査をすることになりましたが、本番行かずに説明だらけの調査なんてもってのほかと思って、やはり本番行くのが大事でしょう?15日が本番でしたので、行くことにしました。

カカカフェの名前自体は、最初はどもりをコンセプトにしたカフェでした。って。カフェのなかのラジオを聴きながら、夕方の田中邸を味わうなんて、初めに聴いたときには想像さえ出来ませんでした。だから本番行くのが大切というか、切実というか、そういう感想でしたよね。

一応下調べの感じで色々考えたときには、果たしてカフェ。というところと、どもりコンセプト中心のいろいろの実験的な(?)ラジオと、互いに雰囲気が溶け込めるかとうか、疑いとかがありましたよね。不安と言うか。

本番をいったところ、はじめの感想は、なんと言うか、「今日だけでは全然分からない=あ=!!」という感想?お客様も少なかったし、ラジオのほうも電波のせいかよく聞き取れが出来ませんでしたし。なによりも、悪い電波のなか、夜中に流れてくる大西さんの声が怖いという感情がすごかったです。大西さんよりもあのDvorakの交響曲から出たらしい詩じたいは、なんというだろう。微妙な感情。

初めにはお飲み物の種類の数のほうも心配でしたが、お客様の大体はお茶だけでも満足しているだけで、あまり問題はなさそうでした。子供とか幼い学生とかも来ないし、あまり甘口はありませんからね。(私を除く。)

でもなによりも、はたしてラジオの内容が田中邸にての夕べを悠々に過ごさせたのかどうかはよくわかりませんでした。ラジオの内容その自体は、「たしかに、おかってだな。」という思いをさせましたがw。

でも常連(?)のお客様たちはこれはこれなりでも満足しているようで関係ないかなーとは思いますけど、たしかに、何か足りないな。という感想はやはりですね。外国人であったためにあまり聞き取りが悪かったのは論外にしてもw()

一応、今日だけではなにか足りない!おいう感想が結論だった。としておきましょうか。あとで何回かまた行ってもっと判断していきましょう。

つめたいおみずはおひめさまのよろこび。

カレーと芸術との相関論、その美学。

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私にとって芸術派かレーのようだ。いくら食べても飽きず喜んでまた食べれるからだ。

カレーは比較的長年前からずっと人類の歴史と一緒にやってきた。それは、芸術が紀元前から人類の歴史とともに存在してきたのと同じであるだろう。カレーの期限は、インドのカリーであり、これは東インド会社を通じて英国に伝わり、イギリスの文物を導入した日本によってもう一度伝わった後、その後には全世界的にカレーという料理が流行になったのである。本来、芸術派国家的な起源を論するのは不可能であるが、反面、現在世界的に享受できるようになったカレーと芸術は、万国の享受可能性という共通点を持っていると見えるだろう。

本来、インドには、色々の材料を用いて作った香辛料を「マッサラー」と呼ぶ。そしてカレーはこのたくさんのマッサラーの中で含まれている種類であり、カレーはそのマッサラーの中で最小の粗雑な材料として作られた安物のマッサラーを意味すると言われている。しかし、これは逆に考えてみると、最小の材料て程度以上の満足的な風味を作って人を楽しませるとも解釈できるが、これは芸術として考えてみると、一種の「ミニマリズム」として見れるだろう。単純な材料として最大の満足を引き出すこと。ミニマリズムの芸術派カレーとも互いに会う面があると思われる。個人的にはミニマリズムのスタイルを芸術の中で一番美しいス
タイルであると考えている私にとって、この点は愛らしい。

同じで見えても全部同じカレーではない。普通、カレーはインドのカレーから基づいたものであるが、インド内でも地方によって多様な形態のカレーが現れる。北のパンジャーブ地方では地方固有のマッサラーがあり、西のグザラット地方は勿論、南のタミールでもその地方なりの固有な形態のマッサラーを持っている。これは芸術として言うと、民族音楽としてのカレーである。同じ地方の音楽としても、地方について固有の芸術が現れる。例えば、韓国では同じ地方のアリランとしても、カンウォン、ウルサン、ジンド・・・地方によって固有の形態の芸術が現れるが、これはつまり、インド内でも地方によって固有のマッサラーが発展したことと同じ姿として見れるだろう。勿論、インドの中でも地方によって多くの民族音楽が発達しているはず。芸術では、少なくても音楽ではホセ・マセダやバルトーク・べーラーのように地方の民族音楽をの収集で情熱を注いだ芸術がいる。では、各地方のカレーを集めた料理屋さんは、そのようなマセダ・コレクションのようなものと見てもいいではないのか。

世界のカレーは全部同じ姿を持っているわけではない。巨視的に視線を広めれば、国によってたくさんの種類のカレーが現れることが分かる。インド外には、タイのカレーである「ケン」は、インドでは味わえない固有の香りが経験できる。日本はカレーとお米を積極的に活用した「カレーライス」を作り、新たな「ジャンル」を作ったのである。韓国では、日本の影響を受け、まだカレーよりは、例の「カレーライス」がもっと普通として食べられるが、そのカレーの風味や色彩は日本のカレーよりはもっと差別化された形態を持っている。その以外にも、中国、ベトナム、バーマー、インドネシアなどのアジアの料理を見てみると、カレーの形態を持っている国々なりの料理が見つけられる。これは芸術の世界性と共通てきな面として、国によって固有の色彩をもった芸術世界を見つけられることと同じである。ギリシャの芸術、中国の芸術、日本の芸術、韓国の芸術、アメリカの芸術、インドの芸術・・・

カレー・ライスの場合、同じ彼であってもどんなお米を使うかによって人々の選好が違うようになることが分かる。インドを含めて西南アジアの場合、水分や粘度がまったくないインディカ種のお米を使う。普通の西洋ではこのようなインディカの種を最高のお米として考える反面、韓国の場合、インディカを粗悪な質のお米としてみている。これは韓国のみならず、日本や中国などの東アジアでも同じだと思う。なぜなら、このような国ではインディカ種よりは水分や粘度が適切に含まれているジャポニカ種のお米を食べてきたためである。インディカよりはジャポニカのお米にもっとなじんでいるのは当然であるかもしれない。需要の面で見ると、東アジアでカレーをもてなす時、インディカよりはジャポニカで作ったカレーライスを供給するのがもっと需要があるはず。芸術も同じである。同じ芸術であるが、その需要の階層がそれぞれであるのだ。例えば、極端てきなスタイルと呼ばれるフィニッシーやファーイフーなどのニューコンプレクシティー(新複合主義)の音楽をどんなに広い階層の人々が好むだろうか。音列主義や過激なアヴァン・ギャルドの作品はどうなるだろうか。今の大衆って、まだこのような芸術を十分に受け止める準備がきちんとなっていないと思う。少なくとも、いまの大衆によってアヴァン・ギャルド作品は東アジア人にもてなされるインディカのお米なのだ。しかし、東アジア人にジャポニカのご飯を食べろって強いる必要はない。芸術も同じである。難しい音楽を必ず聴けと強いる必要は無いのだ。アヴァン・ギャルドの芸術派密やかに大衆のなかで巻き込みながら存在してきた。シュトクハウゼンの電子音楽の研究がクラフトベルクを作り、ビートルズに影響を与えた。今のポストモーダン時代では、純粋芸術と大衆芸術の境界が曖昧になっている。お米も同じであるかも知らない。大衆に純粋芸術と大衆芸術を選ばせると、大衆の殆どは当然ながら大衆芸術を選ぶ。でも純粋芸術を好む少数派もいると同じのように、東アジアでもインディカを好む少数派が存在するのだ。アヴァンギャルド音楽と言うことが人々になじみ始まるためには、優しいことから始まる段階的な努力が必要かもしれない。これは優しいことから始まるカレーの辛さの調節の性格とも似たようなこととして見れるではないだろうか。
カレーは美味しい!カレーだけたべても、ご飯と一緒に食べても、麺と一緒に食べても、パン(ナン)と一緒に食べても、カレーはとっても美味しいのだ。芸術は美しい!美術品をみながら、音楽を聴きながら感動をうける。ダンスや武芸をみでその身体の動きに感心したり、文学をみて涙を流したりする。どんな種類であっても、芸術は美しいものなのだ。

カレーは高い。普通のカレー・ライスなら600円から1千円ぐらいの値段に楽しめるが(インスタントは論外にしよう。)、きちんとしたインド式カレーは、それ以上の値段として売られる場合が多い。芸術も同じであると思うのが、今の芸術市場の値段層はある程度合理的であると思うが、今の芸術市場で、たまには庶民が享受するには、負担が大きい値段のコンサートや展示会もあるだろう。しかし時間が経つと、どんどんインドのカレーでも、現代芸術の展覧会であっても、だれでも享受できるようその規格が低くなるだろうと思う。
カレーは抗癌効果がある食べ物として、人の体を元気にさせる健康食品として知られている。芸術も同じではないか。私は、芸術が人の体と心を元気にさせ、そしてそれが人の魂をきれいにさせると信じている。例えば、カレーが体を元気にさせたら、芸術は心を元気にさせるのだ。

インドはヒンドゥ教の影響で牛の肉を食べない。しかし現代のインド人の中では、牛肉を食べる人なんて、ないはずがない。これは、たぶん彼らがヒンドゥ教徒ではないためであると思うが、ヒンドゥ教を信じても、その教理に関わらず喜んで食べるヒンドゥ教徒もいるのではないか、そう考えてみると、既存の教理にも関わらず牛肉を食べるヒンドゥ教徒は、既存の教理を拒否するままに研究し、発達してきたアヴァン・ギャルド音楽の性格と同じように見れるのではないか。
私かカレーにあったのは、すばらしい偶然であると言いたい。偶然に接したカレーの料理に魅了され、その後のカレーとの恋は今まで繋がっている。芸術も同じである。偶然に聴いたモーチャルトの音楽が私を魅了され、芸術との恋も今までずっと繋がっているのだ。カレーと同じのように、芸術と私との遭遇は本当に素晴らしい偶然であるかもしれない。世界ではどのような素晴らしい偶然が私を待っているか、私は分からないのだ・・・

「何から始めましょうか」

イムです。

ピアニストです。視覚芸術家(コスプレイヤー)です。パフォーマンス・アーティストです。音楽研究者です。etc.です。正確に何者かは自分もよく分かりません。

さって、何から始めましょうか。

この質問の意図は本当に大事であると思います。

自分は主に現代音楽の演奏者なんで、この観点において説明してみましょう。

何から始めるか。この指から弾き始めたらいいだろうか、旋律のポリフォニーはどこから読んだらいいだろうか。それとも作品の背景から研究し始めようかな?

どっちで始めても、たぶん素敵な話の世界が広がるはずなんでしょう。

さって、どこから始めましょうか。自分なりの話を、自分なりの物語を、始めましょうか。

お姫様はまだ城で寝ていますよ。とにかく、お姫様を起こしてみましょう。

では何卒、よろしくお願いいたします(__)