normal≠handicap=personality=normal?

先日、ちょりさんが参加するturnの準備として障害者の方々のバンド練習を見学させて頂きました。
他の施設とは違うとは聞いてたけど・・・驚いた。
何にというと、そこにいた一般的に障害者と呼ばれる人たちの存在そのものと、その存在のしかた。

ほんとにただの友達でしかない。
そもそも彼らを障害者と言っていいのか?

もちろん彼らには生きていく上で何かしらのハンデがあるかもしれない。
でもハンデはあるけど、余分なものがない。
良い意味で子供のまんま、そしてどんだけ感受性の強いことか。
音が大きい、ノれる、やりたい、やりたくない、叫びたい、寝たい、楽しい、つまらない・・・

何かに小さく心を動かされる、あるいは欲望が掻き立てられることは生きててあるけど、それが些細なことだったり当たり前と思ってたり、或いはそんなのに従ってたら他人に迷惑かけるとか、そんな風にして多くの人はそれをスルーしたり殺したりして生きてると思う。

でも彼らにはそれがない。
どんなに小さなことでも敏感に感じとる、反応する。

もちろん多くの人が大人になるにつれて色々学んで大人しくなっていくのは、社会で生きていくために必要だから。
だから共存できるし、それがなかなか難しい人のことを障害者と呼ぶのだろう。

でも逆に言えば、多くの人が心を抑圧して生きてて、そんなことしてるとだんだん鈍感になってくる、或いは知らぬ間に溜まっていっていつか爆発する。 そんなことが起きてる世の中で、彼らはすごく貴重な存在で、大抵の人が忘れてしまうものをもってるんじゃないかと思う。

何で突然大声を出したりぴょんぴょん跳んだり跳ねたりするのか。
それは彼らが魂そのものだからと思う。
それに障害とはいうけど、それは単なる突出した個性だと思う。

でもそんなこともいっぱい思ったけど、私は彼らのことをまだよく知らない。
し、今までちゃんと接したこともないから正直緊張したし、疲れた。
けど、あの空間はおもしろかった。
自分も不器用だしどんだけ時間かかるかわからないけど、慣れて私も単なる友達になりたい。

ひとつ気になったのは、下ネタ好き女好きのおっちゃんがいること。
いっぱい絡んできてくれたけど、その時は緊張してただけで正直おっちゃんが想像するほど私は女子じゃない。
から防備も兼ねて、今度からボーイッシュな格好していこうと思う。

そしてあんま関係ないけど、ドラムをやらせて下さいました。
初ドラム、楽しかった!
そしてよくわからないけどライブの前座一緒にできるかもみたいなわくわくなことも起こりそうで・・・

そんなことも含めて、全く未知の世界にどかんと飛び込んだ感じ。
何もわからない。
わかってないので、手ぶらで計画なしの旅に出てきて初めて何か知らない国に出てきちゃった、だからこれからここを開拓すんぞみたいな、そんな旅人の気分がする。

夜のピクニックは内と外で起こる

スカンク展は自分と他人、内と外を感じる展示だった。

そのためか、7日のパフォーマンスのとき、田中邸の中は体内で壁は皮膚のように思えた。

皮膚を通り抜けて現れたパフォーマーたちが、内側で予想外の動きをする。そしてまた皮膚を通り抜けて外側へ帰って行く。

他者の存在によって自分の意思とは関係なく影響をうけていることのようにも思える。

或る計画

みどり、きいろ、ブラジルの国旗のイメージで塗った。

出来上がったお茶碗は、2色しか使ってないとは思えない色になっていた。

大地の色か、海の色か。

 

このお茶碗をつかって、カンジャパーティーを企んでいる。

カンジャとは、ブラジルの伝統料理でトマトリゾットのようなものだ。

サンバ部が毎年藝祭の模擬店で出している。

カンジャパーティーを私の部屋で開催することで、部屋の掃除をして、料理が作れるようになる。

それは豊かな一人暮らし生活への第一歩になるのではないか、という期待をしている。

結局は友達と集まって騒ぎたいだけだけど。

 

野点のお茶碗は、消えない魔法がかかってるみたいで、部屋の食器棚のなかで野点のわくわく感を漂わせている。

本番が終わっても、作ったお茶碗でまた新しいわくわく(カンジャパーティーのような?)をうみだすことができる。

そんなふうに、人の手元にも心にも残っていくのだと思った。

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メタリックな色は不思議だと思う。

私は鳩を思い出す。鳩の首の色。

なんで自然界であんなメタリックな色をつくりだせちゃうのか。

報告書・FU・RÏ・KÂ・Ë

そろそろ冬に成ろうとしています。おかってに所属され、活動ほ開始はじめたから半年以上経ちましたね。本当、「time flies, clock ticking」です。

(自分勝手に)おかっての重要なイベントのなかで一つであるぐるぐるみっくすは余り参加せず、でも子供の前には何も出来ず無能になってしまって仕方がないという言い訳と一緒に、この点はお詫びいたします。

ぐるぐるミックスでは参加全然しなかったのですが、他にも色々あったでしょう。田中邸を味わう日やスカンクと他の色々の展示、じんじんさんとの楽しい野点・・・おかげさまで自分のアートを見つめる視線に関しても少しだけは影響を受けたかも知れません。

さて本論ですが、今日はちょちょちょちょちょちょ好きなちょりさんのお願いにより、今まで経験したアートイベントのなかで幾つかを振り返りながら文を書いてみようと思います。

正直におかってに入ってから初めの印象は「この人たちなにをしたがっているのか」でした。そして今もその気持ちは構いません(…)しかし「何をしたがっているのか分かっていない」状態であったこそ、色々予測不可な企画たちができるでしょう。

その中で印象に残ったのを選んだら、やはりじんじんさんとの野点と躊躇わず言えます。じんじんさんとは、おかってのイベントで始めて出会った訳では無いのですが、でもおかってと一緒に活動したものの中で、忘れの出来ない印象を与えてくれたのです。

じんじんさんの「(きむらとしろうじんじんの)野点」はもちろん外側でみたら、ただ「自分がお茶碗で色づけてそれて飲みながら遊ぶ」だけなのです。しかしその中で私はどのようにアートを見ながら活動していかなければいけないか、色々考えを齎したのです。それは何でしょうか、何よりも大事なのは、「皆と一緒にアートをする情景」でしょう。自分はクラシックで活動する者で、私の活動領域でこの「場」を作るのはとっても難しい課題であるかもしれません。危くと、クラシック・コンサートがジャニーズのコンサートのようにその性格が覆されちゃう危険もあるのです(勿論場合によってそのようになるのも悪くはないと思いますが・・・)。言い直すと、それは「偏らないこと」です。アーティストとして最小限のプライドを守ることと、境界を破って観客と演奏者である私と一緒に「場」を作ることの間のバランスを取ること。じんじんさんはそのバランスを取るのにとっても熟達されていると私は見えたのです。私の目に見えたじんじんさんの姿は、自分の仕事に夢中になってる姿、お客と一緒に話している、アーティストと客とスタッフの区分を全然考えていない天然性(?)、そのうえ自分の才能を誇らない謙遜に重ねて、全ての姿が分離されていなく、むしろ同時に見られたのです。

ここまで言うと完全に蛇足ですが、じんじんさんは(今としては)性的少数ではないですが、じんじんさんの作業する姿自体は、私に数え切れない量の勇気を与えてくれました。私はアートをする同時に、自分の中に悩んでいたジェンダーやエキスタンシー(自我の存在性)の問題に大きい関心を持っていました。それに関して、じんじんさんは私にどのような姿で社会で直面し、アートをやるべきか、回答まではいえなくてもせめて一種のヒントは出来たかもしれません。

たぶんあっという間にじんじんさんに憧れたかも知れません。「じんじんさんを見習う」とか「じんじんさんになりたい」訳ではないですが、自分も自分なりのアートをするとき、私も私なりの「チャーミング」な形のアートをして行こう。という思いを持っているのです。