発見

先日、大地の芸術祭にいってきました。
町おこしとして新潟で開かれている芸術祭です。

そこで新たな発見がありました。

前から
過疎地でアートをやるっていうのは果たして歓迎されることなんだろうかという疑問があって、
なぜなら
私自身山登りが好きで自然が好きですが、
人間の手によって狂うことも汚されることもなく、
生命力のみが存在していて、その生命力のみに従って動いていく、
そういう自然が好きで、またそういうイメージをもっていたので、
そこにいきなり人間の造形物、人工物がでんと置かれたときに、地元の方たちはどう思うんだろうと考えてました。

でも実際見たら違いました。
というかそもそもああいう景色を今までちゃんと見てなかっただけかもしれません。

ツアーの途中で星峠の棚田を見に行ったのですが、
里山に点在するアート作品はその棚田とよく似ていました。

星峠の棚田は
地元の方々の地道で大きな努力の積み重ねによって維持されている広大な棚田ですが、
それを見たときに、
人間は自然の一部でしかないんだと気づかされました。
棚田は自然と共存し、自然の中で生きる人間の営みでした。

作品を見たときに
自然を破壊するような傲慢さは全くなくて、
まわりの風景や空気に対して謙虚で
かといって腰が引けてるわけでもなく、
ただそこに存在し、自然と共存しているように見えました。
何でなんだろうなと思ったら、
そこにあった作品が、純粋に
自然の一部として生きる人間の営みとして見えたからです。

人間の力が及ばない自然の風景ではなく
人間が自然の一部として共存する風景を初めてちゃんと見て、
そこでアートも
自然の一部として生きる人間の営みなんだということに気づかされました。

作品自体はあんまり理解できませんでしたが(反省)、
それに気づいただけでも大きな収穫でした。

今度はもっとじっくり見にまた芸術祭へ行きたいです。
そして久々に山々に囲まれたことにより、
山小屋バイトをしたい・・・
とますます思ったのでした。

ぐるぐるミックス

主旨

・技術の習得が目的ではなく、こどもの表現意欲を尊重して創作する場。

・知らない人との出会い、使ったことのない素材・手法との出会いから、こども自身がなにかを発見・発明して新しい表現につなげられるように手助けする。

 

何をもって成功とするか

・無事故、無怪我。

・一年間通ってもらう。

・次も来たくなる。

・自分が作った物に自信をもつ。

→こどもにもその日どうだったか評価してもらう(テーブルごとにスタッフが話を聞く/スタンプやシールで良い悪いを評価、、、)

 

何をもって成功とするかをまとめることで、スタッフが何をしたら良いのかも見えてくる。

 

大きな樹

大きな音は大きな空間をつくる

大きな樹は風と戯れるのに夢中で、
こっちなんか気にしちゃいないから
泣いてしまいそうになる

雨宿りさせてくれてありがとう

そう言いたいけどそんなこと言ってほしいわけじゃないよね

笑顔で、またねって、心の中で挨拶する

そんな時間を
大友さんがつくる音の森は思い出させてくれた

osmotic pressure

スカンクさんの話、皮膚の内と外の濃度のことで思い出したことがある。

浸透圧。高校の生物の授業で、海水魚と淡水魚の話を聞いた。浸透圧が違うと水が体内と体外を移動するみたいなことだった気がするが、ほぼ忘れてしまった。

ただノートに魚の絵を描いていた記憶がすごく残っている。

 

 

アーティストと会ってみて、そんな空気ないのに空気を読んでしまう、ということがよくわかった。

私の場合、アーティストでなくても、あまり親しくない友達や、先輩、レッスンで同じグループの人などと話すのも苦手で、もどかしい。

でもきっと、挽回する機会はいくらでもある。

まちがえた

ほなみです。

先ほどのタイトル、
嘘です。

失敗を受け入れ
日々精進してまいりたいと思います。

因みにほんとのタイトルは・・・

永遠の謎です。
解き明かしてくださったら嬉しいです。

【category honami】

慣れない環境で悶々と過ごし
辛かった前期を終えて
ちょっとずつ元気が出てきたので、
ちょっとポジティブな話をしようと思います。

先日、8月末に出演するあるよさこい祭りの練習に初めて参加してきました。

初めてなのは自分含め数人だけ、
そして他の人が3か月かけたものを
一度で全て教わるという怒涛の練習で気づいたこと。

ただでさえ振りを覚えられないので、
ちょっとずつ記憶したはずの振りが
通しになると出てこない。

入れてる引き出しはあるはずなんですが、前でリードしている人の振りを見てからじゃないと開けない。

もっとひどいと、見ても
そんなのやったっけ?みたいな、
そもそも記憶がない。

そんなことをしてると
焦りもするけど自分に腹がたってくる。
いくら必死だとしても、
ひとつ入れるとひとつ抜けるという自分は一体何なんだ、という苛立ち。

そんな感じで必死でついていった練習の最後に、
2回通す機会がありました。

1回目は経験者ばっかりの中で、リードする人ありでの通し。
なんとか振りを追ってっても、必ずワンテンポ遅れるので非常に悪目立ちする。
そこで気にするのは周りとの差であって、やばい、覚えなきゃ、と思う原動力はほぼほぼプレッシャーから来るものでした。

2回目は、まだ振りが完璧でない人が多く、さらにリードする人もいないというグループ。
当然振りを思い出せるはずなし。
周りを見ようにも誰が正しいんだかわからない。

そして
頭も身体もぐちゃぐちゃの中で、自分の中の何かがぷつん、と切れたらしい。

俗に言う、開き直り。

あーもうどんなでもいいから踊ってしまえ!となった。

そして自分の手足がどこに行ってんのかもわからないまま暴れ倒し、
やべー!あはは
と笑い飛ばした直後に、

あ、あたし出来るな
と思いました 笑
 

人様に恥をさらして自信がわくという矛盾。

なんでだ?

あたし出来るな、は
絶対やってやる、と同じでした。
笑いながらメラメラ闘志とやる気と自信がわいてきた。

悔しさはあったと思いますが、
一線越えて恥かいて、
ダメダメな自分を受け入れられたらしい。
そしてプレッシャーじゃなくて素直に、
自分も踊れるようになってやる、
そう思えたらしいのでした。

すごく苦手だけど、
受け入れるのって大事、
開き直って恥かくの大事だ、
と思いました。
あとは、自分は絶対できる、という自信をもてる経験があったこともあり。
そういうのは忘れずにいたいし、そういう経験を増やしていかねばと思っています。

絶対やってやる、と
絶対できる、は紙一重。
とりあえず8月末のステージで笑顔で舞えているのは疑いようのない事実なので、
これから練習、頑張ろうと思います。

みなさんもぜひ、原宿表参道元気祭りスーパーよさこいで元気になりましょう。

以上、ほなみでした。

ショタシュンビン

華麗なくぐり抜け技術を披露し颯爽と去っていった

事情があったかは不明

肘をスライディングさせて、身体を浮かせて、ビュンッ

タイミングを伺って、私の前に割り込んだ

もしかしたら常習犯

追いかけて、取っ捕まえる気にもならない鮮やかな犯行

水曜日は郡上八幡音楽祭に行ってきました。

まず土取さんのパワーとスピードに驚愕!

あまりのパワーに、フロアタムの脚のネジが緩み、下がってしまったのを、スピードを保ったまま叩きながら直すという場面もありました。

そして不思議な音のドラム!

ソロで叩いている時もベースの音が聴こえる!

よく見るとバスドラムのフロントヘッドが外されていて、アタックではなく響きを最大限だすようなチューニングと踏み方をしていたのだろうと思いました。

ほかにも、その流れでドラ叩くの!?とか、マラカスでドラム叩いちゃうの!?とか突っ込みどころ満載でおもしろかったです。

正直なところ、

フリージャズをあまり聞かないので、よくわからないけどなんだかすごいな、照明プラン考えるの大変そうだな、というのが全体の感想です。

それでも行って良かったし、あまり聴いた事のないようなものに挑戦するのも楽しいと思いました。

そして、そうすることに今まで自分が怠慢だったと痛感しました。

 

私はよく寝ている時に足をつります。

今日1日で少し健康になれた気がするので、足がつらないようになればいいなと思いました。

おやすみなさい!

カレーと芸術との相関論、その美学。

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私にとって芸術派かレーのようだ。いくら食べても飽きず喜んでまた食べれるからだ。

カレーは比較的長年前からずっと人類の歴史と一緒にやってきた。それは、芸術が紀元前から人類の歴史とともに存在してきたのと同じであるだろう。カレーの期限は、インドのカリーであり、これは東インド会社を通じて英国に伝わり、イギリスの文物を導入した日本によってもう一度伝わった後、その後には全世界的にカレーという料理が流行になったのである。本来、芸術派国家的な起源を論するのは不可能であるが、反面、現在世界的に享受できるようになったカレーと芸術は、万国の享受可能性という共通点を持っていると見えるだろう。

本来、インドには、色々の材料を用いて作った香辛料を「マッサラー」と呼ぶ。そしてカレーはこのたくさんのマッサラーの中で含まれている種類であり、カレーはそのマッサラーの中で最小の粗雑な材料として作られた安物のマッサラーを意味すると言われている。しかし、これは逆に考えてみると、最小の材料て程度以上の満足的な風味を作って人を楽しませるとも解釈できるが、これは芸術として考えてみると、一種の「ミニマリズム」として見れるだろう。単純な材料として最大の満足を引き出すこと。ミニマリズムの芸術派カレーとも互いに会う面があると思われる。個人的にはミニマリズムのスタイルを芸術の中で一番美しいス
タイルであると考えている私にとって、この点は愛らしい。

同じで見えても全部同じカレーではない。普通、カレーはインドのカレーから基づいたものであるが、インド内でも地方によって多様な形態のカレーが現れる。北のパンジャーブ地方では地方固有のマッサラーがあり、西のグザラット地方は勿論、南のタミールでもその地方なりの固有な形態のマッサラーを持っている。これは芸術として言うと、民族音楽としてのカレーである。同じ地方の音楽としても、地方について固有の芸術が現れる。例えば、韓国では同じ地方のアリランとしても、カンウォン、ウルサン、ジンド・・・地方によって固有の形態の芸術が現れるが、これはつまり、インド内でも地方によって固有のマッサラーが発展したことと同じ姿として見れるだろう。勿論、インドの中でも地方によって多くの民族音楽が発達しているはず。芸術では、少なくても音楽ではホセ・マセダやバルトーク・べーラーのように地方の民族音楽をの収集で情熱を注いだ芸術がいる。では、各地方のカレーを集めた料理屋さんは、そのようなマセダ・コレクションのようなものと見てもいいではないのか。

世界のカレーは全部同じ姿を持っているわけではない。巨視的に視線を広めれば、国によってたくさんの種類のカレーが現れることが分かる。インド外には、タイのカレーである「ケン」は、インドでは味わえない固有の香りが経験できる。日本はカレーとお米を積極的に活用した「カレーライス」を作り、新たな「ジャンル」を作ったのである。韓国では、日本の影響を受け、まだカレーよりは、例の「カレーライス」がもっと普通として食べられるが、そのカレーの風味や色彩は日本のカレーよりはもっと差別化された形態を持っている。その以外にも、中国、ベトナム、バーマー、インドネシアなどのアジアの料理を見てみると、カレーの形態を持っている国々なりの料理が見つけられる。これは芸術の世界性と共通てきな面として、国によって固有の色彩をもった芸術世界を見つけられることと同じである。ギリシャの芸術、中国の芸術、日本の芸術、韓国の芸術、アメリカの芸術、インドの芸術・・・

カレー・ライスの場合、同じ彼であってもどんなお米を使うかによって人々の選好が違うようになることが分かる。インドを含めて西南アジアの場合、水分や粘度がまったくないインディカ種のお米を使う。普通の西洋ではこのようなインディカの種を最高のお米として考える反面、韓国の場合、インディカを粗悪な質のお米としてみている。これは韓国のみならず、日本や中国などの東アジアでも同じだと思う。なぜなら、このような国ではインディカ種よりは水分や粘度が適切に含まれているジャポニカ種のお米を食べてきたためである。インディカよりはジャポニカのお米にもっとなじんでいるのは当然であるかもしれない。需要の面で見ると、東アジアでカレーをもてなす時、インディカよりはジャポニカで作ったカレーライスを供給するのがもっと需要があるはず。芸術も同じである。同じ芸術であるが、その需要の階層がそれぞれであるのだ。例えば、極端てきなスタイルと呼ばれるフィニッシーやファーイフーなどのニューコンプレクシティー(新複合主義)の音楽をどんなに広い階層の人々が好むだろうか。音列主義や過激なアヴァン・ギャルドの作品はどうなるだろうか。今の大衆って、まだこのような芸術を十分に受け止める準備がきちんとなっていないと思う。少なくとも、いまの大衆によってアヴァン・ギャルド作品は東アジア人にもてなされるインディカのお米なのだ。しかし、東アジア人にジャポニカのご飯を食べろって強いる必要はない。芸術も同じである。難しい音楽を必ず聴けと強いる必要は無いのだ。アヴァン・ギャルドの芸術派密やかに大衆のなかで巻き込みながら存在してきた。シュトクハウゼンの電子音楽の研究がクラフトベルクを作り、ビートルズに影響を与えた。今のポストモーダン時代では、純粋芸術と大衆芸術の境界が曖昧になっている。お米も同じであるかも知らない。大衆に純粋芸術と大衆芸術を選ばせると、大衆の殆どは当然ながら大衆芸術を選ぶ。でも純粋芸術を好む少数派もいると同じのように、東アジアでもインディカを好む少数派が存在するのだ。アヴァンギャルド音楽と言うことが人々になじみ始まるためには、優しいことから始まる段階的な努力が必要かもしれない。これは優しいことから始まるカレーの辛さの調節の性格とも似たようなこととして見れるではないだろうか。
カレーは美味しい!カレーだけたべても、ご飯と一緒に食べても、麺と一緒に食べても、パン(ナン)と一緒に食べても、カレーはとっても美味しいのだ。芸術は美しい!美術品をみながら、音楽を聴きながら感動をうける。ダンスや武芸をみでその身体の動きに感心したり、文学をみて涙を流したりする。どんな種類であっても、芸術は美しいものなのだ。

カレーは高い。普通のカレー・ライスなら600円から1千円ぐらいの値段に楽しめるが(インスタントは論外にしよう。)、きちんとしたインド式カレーは、それ以上の値段として売られる場合が多い。芸術も同じであると思うのが、今の芸術市場の値段層はある程度合理的であると思うが、今の芸術市場で、たまには庶民が享受するには、負担が大きい値段のコンサートや展示会もあるだろう。しかし時間が経つと、どんどんインドのカレーでも、現代芸術の展覧会であっても、だれでも享受できるようその規格が低くなるだろうと思う。
カレーは抗癌効果がある食べ物として、人の体を元気にさせる健康食品として知られている。芸術も同じではないか。私は、芸術が人の体と心を元気にさせ、そしてそれが人の魂をきれいにさせると信じている。例えば、カレーが体を元気にさせたら、芸術は心を元気にさせるのだ。

インドはヒンドゥ教の影響で牛の肉を食べない。しかし現代のインド人の中では、牛肉を食べる人なんて、ないはずがない。これは、たぶん彼らがヒンドゥ教徒ではないためであると思うが、ヒンドゥ教を信じても、その教理に関わらず喜んで食べるヒンドゥ教徒もいるのではないか、そう考えてみると、既存の教理にも関わらず牛肉を食べるヒンドゥ教徒は、既存の教理を拒否するままに研究し、発達してきたアヴァン・ギャルド音楽の性格と同じように見れるのではないか。
私かカレーにあったのは、すばらしい偶然であると言いたい。偶然に接したカレーの料理に魅了され、その後のカレーとの恋は今まで繋がっている。芸術も同じである。偶然に聴いたモーチャルトの音楽が私を魅了され、芸術との恋も今までずっと繋がっているのだ。カレーと同じのように、芸術と私との遭遇は本当に素晴らしい偶然であるかもしれない。世界ではどのような素晴らしい偶然が私を待っているか、私は分からないのだ・・・

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生まれて初めてシュプレヒコールを叫びました

写真 2015-07-16 22 46 56
スノッブになりたくない

 

 

スマトーフォンのタッチパネルが壊れて勝手に動き出し
雨の日に滑って落としてコンクリートの上で割れ
台風がくるみたい
おばあちゃんの家でたくあんを食べたい

 

 

スノッブになりたくねーよーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

な!